神明宮の由来
 神明宮がいつからこの地にまつられるようになったかは定かではありませんが、大正年間に発行された旧『岡崎市史』には「伝承によると、もと材木町字久後(現在の一丁目三番地)にあった稲前神社を、天正十八年(1590)、田中吉政が岡崎城主になって城地拡大に伴いこの地に移転再興したもの」と書かれています。

 また、同じく旧市史には、天正二十年(1592)に神官の深見六蔵氏が田中吉政の家老辻勘兵衛より禰宣屋敷を寄進されたとあり、その「寄進状」の写真が掲載されています。(下図)


 寛延二年(1749)、社殿を再建し、遷宮式を行っています。明治五年に村社となり、明治四十二年には拝殿が改築され、大正十三年には境内の御鍬社、津島社、厳島社、稲荷社などを合併し、神殿、渡り殿、神楽殿、社務所、石鳥居などが建立されています。

 祭神は皇大神宮(天照大神)、豊受大神宮(豊受姫命)、須佐之男命、五十猛命、市杵島姫命の五座です。

 なお、旧市史には『参河名勝志』から引用した次のような伝承も書かれています。

「神明宮 西能見村に在り 神領三石
 昔日、源頼義公の家臣に嵩地源太夫広長という者あり、能見の郷を開き一神祠を建立すと云う、其後加藤新蔵、鈴木市蔵、近藤九兵衛なる者は皆、村中累代の旧家なれば、相共に評議して御神体を改め、神明を勧請せしとぞ、承久の頃(1220年頃)は星野判官額田郡の知たり・・・(後略)・・・」

 この外、『社寺旧記』や『能見村根元之事』には、鎌倉時代の源頼家の代に疫病封じのため、能見村の加藤新蔵、鈴木市蔵らが神明を勧請したという由来が伝えられています。


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