現在、神明宮の氏子は次の十二ヶ町です。
| 氏子 |
人口 |
戸数 |
| 元能見北町 |
458 |
152 |
| 能見北之切 |
297 |
93 |
| 能見中之切 |
184 |
69 |
| 能見南之切 |
258 |
82 |
| 材木一丁目 |
258 |
97 |
| 材木二丁目 |
260 |
92 |
| 松本 |
485 |
200 |
| 元能見中町 |
436 |
148 |
| 元能見南町 |
629 |
239 |
| 城北 |
522 |
183 |
| 柿田 |
302 |
123 |
| 末広 |
716 |
231 |
- 能見(のみ)・・・能見三町、元能見三町
- 岡崎城の北、外堀の外側に位置する一帯は、古くから能見ヶ原と称されていました。
『能見村根元之事』には、十二世紀のころ、矢作の里の兼高長者がこの辺りで月に六度の能狂言を催したところから「能見村」と名付けられたと伝えられています。能見村はその後、村の東側が能見町となり岡崎宿中に入ると、これに対し、能見村を西能見とも呼びました。現在の元能見町です。
- 材木(ざいもく)・・・材木二町
- 『参河国名勝志』には昔は稲前神社の社地で、巨木が鬱蒼とした深林であったが、城市を開くにあたって、これを伐採し、柱や板にして売ったところから「材木町」の名が付いたとあり、別名「木町」(きまち)とも呼ばれました。
- 松本(まつもと)・・・松本
- 松本の町名の起こりは、明治五年二月のことです。
天文十八年三月、岡崎城主松平広忠が家臣に殺害され、その遺体が能見ヶ原の月光庵(現松応寺)に埋葬されました。永禄三年(1560)、家康はこの地に父の菩提の寺を建て、自分が植えた松がよく繁っているのを見て、我が祈念に応ずる松だ、ということで寺の名を松応寺としました。この故事から、広忠公の墓上の松の本の町ということで「松本町」と名付けられました。(参考・・・『松本町百年祭記念 まつもと』
- 城北(じょうほく)・・・城北
柿田(かきた)・・・柿田
末広(すえひろ)・・・末広
- この三町は、元能見町の一部で「元能見西」として氏子の一つであったが、区画整理により昭和五十一年四月一日よりこの新しい町名を名乗ることになりました。
「城北」は岡崎城の北部に位置し、町内に城北中学校があることからも名付けられました。
「柿田」は町内を流れる柿田川にちなんで名付けられました。
「末広」は日名の一部を含んだ町で今後の発展を願い、目出度いこの名を付けたものです。
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