神明宮の氏子

 現在、神明宮の氏子は以下の町の町民により構成されています。

町名 戸数
元能見中町 112
元能見南町 225
城北町 153
元能見北町 125
能見北之切 71
能見中之切 73
能見南之切 109
材木一丁目 90
材木二丁目 56
松本町 165
※平成29年4月現在・各町調べ

町名の由来

能見(のみ)・・・能見3町、元能見3町

岡崎城の北、外堀の外側に位置する一帯は、古くから能見ヶ原と称されていました。
『能見村根元之事』には、十二世紀のころ、矢作の里の兼高長者がこの辺りで月に六度の能狂言を催したところから「能見村」と名付けられたと伝えられています。能見村はその後、村の東側が能見町となり岡崎宿中に入ると、これに対し、能見村を西能見とも呼びました。現在の元能見町です。

材木(ざいもく)・・・材木2町

『参河国名勝志』には昔は稲前神社の社地で、巨木が鬱蒼とした深林であったが、城市を開くにあたって、これを伐採し、柱や板にして売ったところから「材木町」の名が付いたとあり、別名「木町」(きまち)とも呼ばれました。

松本(まつもと)・・・松本町

松本の町名の起こりは、明治5年2月のことです。
 天文18年3月、岡崎城主松平広忠が家臣に殺害され、その遺体が能見ヶ原の月光庵(現松応寺)に埋葬されました。永禄3年(1560)、家康はこの地に父の菩提の寺を建て、自分が植えた松がよく繁っているのを見て、我が祈念に応ずる松だ、ということで寺の名を松応寺としました。この故事から、広忠公の墓上の松の本の町ということで「松本町」と名付けられました。(参考・・・『松本町百年祭記念 まつもと』)

城北(じょうほく)・・・旧元能見西町

この町(および柿田町、葵町、末広町)は、元能見町の一部で「元能見西」として氏子の一つであったが、区画整理により昭和51年4月1日よりこの新しい町名を名乗ることになりました。
「城北」は岡崎城の北部に位置し、町内に城北中学校があることからも名付けられました。